2010年12月6日月曜日

図式を利用して伝え手の意図を表現する

第6回mixbeatワークショップのテーマは「文章を読んで、理解した内容を図式で表現する」でした。図式にはER図やユースケース図、クラス図など目的とフォーマットが決まった図式と、マインドマップやポンチ絵といったフリーフォーマットに近い図式が考えられますが、ここでは「フリーフォーマットに近い図式」が対象となりました。このテーマに至った直接的な経緯について、ワークショップ中は断片的な情報しか得られなかったのですが、整理すると恐らく次のようになります。

  • 自分が見聞きしたことを第三者に伝えるとき、図式を活用することでより円滑に伝える事ができる(コミュニケーションを円滑にするために、図式は使える)
  • しかし、図式を上手く活用するのは難しい(理解し易く誤解を与えない図式を描くのは難しい)
  • 図式を作成するときに気を付けているポイントを、ワークショップで評価・共有してみてはどうか?

私は「情報システム部門のシステムエンジニア」という仕事柄、他部署や取引先とのコミュニケーションを円滑化するために、日常的に図式を活用しています。同時に図式を利用したコミュニケーションの難しさも常々感じていたため、テーマとしては非常に興味深いものでした。他の人は図式を作成するときにどのような工夫をしているのか…

ワークショップの流れは概ね以下の通りで、当日はこれを3セット実施しました。

  1. 各自課題文章を読む
  2. 各自読んだ課題文章の内容を図式で表現する
  3. 各自作成した図式を参加者全員で共有する

運営サイドとしてはこの後さらに「4. 図式を作成するときに気を付けているポイント(ティップス)を共有する」まで行きたかったようなのですが、今回はそこまで辿りつくことはできませんでした。

ここからは当日の様子を少しご紹介します。

冒頭はワークショップの説明。図式を使うことで理解できていないことや間違って理解していることに気付きやすくなる、というのは確かにありますね。



図式の活用シーン。読んだ文章の内容を図式に変換して文章の作成者に「こういうことで良いですか?」と確認。よくあります。



図式を描く際のポイントとして、「要素を取り出す」「関係性を整理する」の2点が挙げられました。ER図やクラス図を想起させます。



運営サイドによる説明が終了。そしていざ実践!

とはならず。

先ほど「このテーマに至った直接的な経緯について、ワークショップ中は断片的な情報しか得られなかった」としましたが、この段階で「このテーマに至った経緯(ワークショップの意義)」や「今回のワークショップでやろうとしていることの全体像」「図式を利用するタイミング」についてあまり説明がなされなかったためか、ここで質疑が紛糾。



それでもとりあえずやってみることに。



みんなが作成した図式が一斉に張り出されます。結構面白い。ですが、図式を共有しただけで終了となってしまい、ここから何を得られるのかは判然としませんでした。



2セット実施後、お昼休みへ。昼食を食べたあと午前中の内容についてみんなでディスカッション、午後もとりあえずやってみようということになりました。しかし、午前中同様、多様性を感じることはできたのですが、ここから何が得られるのか分かりませんでした。

ワークショップの良さの一つに、自分の中で閉じていた知識を他者と比較できる、あるいは自分の中で閉じていた知識を他者に評価してもらえる点があると思います。そして今回のワークショップでは残念ながらここに至れなかったのではないかと感じています。ワークショップの設計も甘口でした。ただ、こうした「失敗経験」は絶対に次につながるはずです。

塾長のブログに、今回のワークショップに関する記事がアップされています。


今回のワークショップは1年あるmixbeat在塾期間のちょうど折り返し地点。mixbeatは本当に勉強になります。

2010年12月3日金曜日

報道メディアとデータジャーナリズム

今からちょうど1年前にブログ『RealTimeWeb』で紹介されていた「データジャーナリズム」ですが、一連のウィキリークス報道をきっかけに注目するようになりました。きっかけとなったのは小林恭子氏のブログ記事です。


以下は佐々木俊尚氏のメルマガ(vol.118『マスメディアとインターネットはどう補完しあえるのか?(後編』)からの抜粋、データジャーナリズムについて。

データジャーナリズムは、政府などが持っている膨大な量の統計資料などのデータを分析し、それらをわかりやすく可視化していくというジャーナリズムです。これは調査報道手法から、デザインやプログラミングまでをも含む非常に広い分野の手法を統合させて、そこにひとつの重要な物語を紡いでいくというアプローチです。

(中略)

データジャーナリズムにおいても、やるべきことは普通のジャーナリズムと変わりありません。何かのできごとを取材し、そこからどのような物語を拾い上げるのかがジャーナリズムの仕事だとすれば、データジャーナリズムも同様に「データを調べて、そこから何らかの物語を抽出する」という行為を行っていくということです。

英紙ガーディアンは既にこのデータジャーナリズムを実践しているようです。その取り組みは、今年8月に米ブログ『Nieman Journalism Lab』に掲載された記事『How The Guardian is pioneering data journalism with free tool / フリーのツールを活用したデータジャーナリズムの先を行くガーディアン』に紹介されています。


ガーディアンは以前からデータジャーナリズムに力を入れており、その集大成は同紙のサイトにある『DATA BLOG』及び『DATA STORE』に結集されています。


同紙は、公開前に情報を得ていたこともありますが、一連のウィキリークス報道でも、賛否はともかく、そのデータジャーナリズムのノウハウを駆使し、多くの記事を発信しています。


一方、日本の場合ですが、国内の報道メディアで取り上げられるウィキリークス関連のニュースはその殆どが外電であることから、独自にデータを分析している(できている)ところは少ないのかもしれません。菅原琢氏(@sugawarataku)の著書『世論の曲解』や田村秀氏の著書『データの罠』でも指摘されていますが、データジャーナリズムは日本の報道ディアにとっては比較的弱い領域のようです(両書ともお勧めです)。

影響力のある報道メディアがデータの取り扱いを誤ると、大きな誤解や誤った分析結果を拡散してしまう恐れがります。様々な重要なデータがネットを中心に一般公開されるようになってきていることもあり、報道メディアにおける質の高いデータジャーナリズムに対する必要性は、これから益々高まるのではないでしょうか。

メディアにコントロールされない

先日、ベトナム戦争を題材にしたノンフィクション映画『ウィンター・ソルジャー』と『ハーツ・アンド・マインズ』を鑑賞してきました。場所は恵比寿の東京都写真美術館。あまりにも衝撃が強く、正直なところ、両作品とも自分の中で完全には消化し切れていないのですが、少なくとも、ベトナム戦争の悲惨さを体で感じることはできました。


「東洋人の命の価値は、西洋人のそれよりも軽い。だから殺しても構わない」と言い放つアメリカの仕官。東洋人は「劣った人種」だと刷り込まれ、ゲーム感覚で兵器を操り、兵士・捕虜・民間人、誰彼構わず目の前に居るベトナム人の殺戮を厭わなくなるアメリカ兵。そのアメリカ兵も、戦争によって体も心もズタズタにされ、帰国するころには何のために戦っていたのかわからなくなくなっていた。そして「自由を勝ち取るため」に助けを求めたアメリカに破壊されるベトナム。戦争は人を狂わせ、憎しみを無限増殖させる。戦争だけはやってはいけない…

これが、両作品を通して私が感じた、ベトナム戦争の悲惨さです。

私は映画を観ながら、何故アメリカはこのような、アメリカ市民自身が後悔するような戦争を始めることができてしまったのか、その理由について考えていました。何故戦争へ突き進む政府や軍部を、市民はとめることができなかったのか。

ベトナム戦争以来アメリカの対外政策を批判し続けてきたMITの著名な言語学者ノーム・チョムスキー氏は著書『メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会』の中で次のように指摘されています。

場合によっては、歴史を完全に捏造することも必要になる。

それが病的な拒否反応を克服する一つの方法でもある。誰かを攻撃し、殺戮しているとき、これは本当のところ自己防衛なのだ、相手は強力な侵略者であり、人間ならぬ怪物なのだと思わせるのだ。

ヴェトナム戦争が始まって以降、当時の歴史を再構築するために払われた努力はたいへんなものだった。あまりにも多くの人が、本当の事情に気づきはじめていたのだ。多数の軍人だけでなく、事実に気づいて平和運動などに参加した若者もたくさんいた。これはいかにもまずい。そうした危険な考えを改めさせ、正気を取り戻させなければならなかった。

すなわち、われわれのすることはみな高貴で正しいことだと認識させるのだ。われわれが南ヴェトナムを防衛しているからにほかならない。いったい誰から?もちろん、南ヴェトナム人からだ。ほかの誰がそこにいただろう。ケネディ政権はいみじくも、これを南ヴェトナム「内部の侵略者」にたいする防衛と称したものだ。

この言い方は民主党の元大統領でケネディ政権の国連大使を務めたアドレイ・スティーヴンソンなども使っている。これを公式の見解とし、国民にしっかりと理解させなければならなかった。その結果は申し分なかった。メディアと教育制度を完全に掌握していさえすれば、あとは学者がおとなしくしているかぎり、どんな説でも世間に流布させることができるのだ。

翻って日本。半村一利氏の著書『昭和史』には、無謀な戦争へ突き進む軍部を、新聞が後押しし、日本全体が太平洋戦争へと雪崩れ込んでいく様子が描かれています。

戦争は一度始めてしまうと後戻りができなくなる。
決して始めてはいけない。
しかし、メディアは、私たちを戦争へと誘うことがある。
戦争の啓蒙を、メディアがすることがある。
私たち一人ひとりが、メディアの嘘を見抜けるようになる必要があるのではないか。

うまくまとめることができないのですが、私がメディア・リテラシを大切に思う理由が、ここにあります。私たち市民一人ひとりが考える力をつけ、メディアの情報を鵜呑みにしなくなること、メディアにコントロールされないような「情報耐性」を身に付けること、これはとても大切なことなのではないでしょうか。