2011年4月28日木曜日

メディアの本質を捉えるために

約15年ぶりに再読している『マクルーハン理論』が実に面白い。著者はカナダ出身の英文学者・マーシャル・マクルーハン氏で、既に死去されています。英文学者でありながらメディアやコミュニケーションにも精通し、生前は独自のメディア論を精力的に展開していました。氏が残したメディアに関する論文や書籍の内容は現代になっても陳腐化しておらず、今でも頻繁に参考文献として使われています。ユリイカの電子書籍特集でも言及されていましたね。メディアはテクノロジーとともに進化しているため、インターネットは言うに及ばず、パソコン通信すらなかった1960年ごろに提唱された理論が未だに継承されている、というのは驚きです。

マーシャル・マクルーハン - ウィキペディア


もともと英文学教授であったが、メディアに関する理論の方が彼を著名にした。あらゆる視点からの斬新なメディア論を展開。もともと英文学教授であったが、メディアに関する理論の方が彼を著名にした。あらゆる視点からの斬新なメディア論を展開。

「メディアはメッセージである」という主張。普通、メディアとは「媒体」を表すが、その時私たちはメディアによる情報伝達の内容に注目する。しかし、彼はメディアそれ自体がある種のメッセージ(情報、命令のような)を既に含んでいると主張した。

テクノロジーやメディアは人間の身体の「拡張」であるとの主張。自動車や自転車は足の拡張、ラジオは耳の拡張であるというように、あるテクノロジーやメディア(媒体)は身体の特定の部分を「拡張」する。しかし、単純に拡張だけが行われるのではなく、「拡張」された必然的帰結として衰退し「切断」を伴う。

マクルーハン氏のメディア論を読み解くにはメディアに関する背景知識がある程度必要で、また、難解な部分も多々あるため、これを消化するのはなかなか難しいと思われます。しかし、とても示唆に富んでおり、メディアの本質を理解する上でかなり役立つのではないでしょうか。

『マクルーハン理論』には例えば次のような言及があります。自分自身、まだまだ消化しきれていない部分があるため、分かり難い表記・不明確な表記、及び要約と抜粋が混じっている点にについてはご容赦ください。

  • メディア(メディアに内包されているコンテンツではなく、メディアそのもの)は人間に多大な影響を与える。成長過程において接触してたメディアの違いで、考え方や物の見方、情報処理の方法が全く変わってくる(つまり、書籍世代、新聞世代、ラジオ世代、映画世代、テレビ世代、雑誌世代、ネット世代、ケータイ世代、ソーシャルメディア世代で考え方が異なるのは必然)
  • 新しいテクノロジーはすべての人の感覚生活を完全に変える。そしてわれわれの仕事の多くは人々の感覚生活のプログラムを再編すること、すなわち新しいテクノロジーを生活に組み込むことといえる。教育の仕事は「教えること」ではなく「生活の時間を節約すること」であり、医者の仕事は「人を治療すること」ではなく「患者が自分で治すよりもはるかに速やかに治るようにしてやること」なのである。
  • 『新聞も含めてすべての新しいメディアは、詩と同じように、それ自身の仮定を人に押しつける力をもった芸術形式である。新しいメディアは、われわれを古い「リアルな」世界に関連づける手段となるものではない。それ自身がリアルな世界なのである。それは残っている古い世界を意のままに再編成するのである。』【P97】
  • 『「あなたの本当のお仕事はなんですか」とテレビ会社に質問するとすれば、その答えは次のようでなくてはならないだろう―-「われわれの仕事は、北アメリカの人びとの感覚を再編成し、ものの見方、体験を全体的に変えることである」。』【P122】
  • 『今日、消費者は商品からではなく、広告から満足を得ているので、広告は商品のかわりとなりつつあるのである。これは事態のほんの始まりにすぎない。今後ますます人間生活の満足と意味は、生産された商品からではなくて、広告から得られるようになるだろう。』【P144】

また、テレビまでの各メディア、そして当時の状況について次のように言及されています。

聴覚的空間への回帰 (P103)


グーテンベルクは全歴史を同時的なものにした。持ち運びのできる書物は、死者の世界を紳士の書斎の空間にもちこんだ。電信は全世界を労働者の朝食のテーブルにもちこんだ。

写真は透視法の絵画と固定した目の機械化である。それは印刷物がつくり出した国家主義的な自国語の空間の境界を破った。印刷物は口でしゃべるスピーチと書かれたスピーチとのバランスをこわした。写真は耳と目のバランスをこわした。

電話と蓄音機とラジオは、文字教養獲得後の聴覚的空間の機械化である。ラジオはわれわれを心の闇につれもどし、火星の侵略とオーソン・ウェルズにひきつけたのである。それは音の空間であるところの孤独という井戸を機械化する。拡声器に接続された人間の心臓の鼓動は、だれでも溺れることのできる孤独の井戸を提供してくれる。

映画とテレビが人間の感覚領域の機械化の周囲を完結される。偏在する耳と動きまわる目をもつことによってわれわれは、西欧文明のダイナミズムを確立した専門化した聴覚的・視覚的メタファであるところの書字法をなくしてしまったのである。

書くことを超えることによってわれわれは、一国あるいは一文化のではなく、宇宙の、地球の全体性を再び獲得したのである。われわれは高度に文明化した準原始的な人間を喚起したのである。

しかし、いまだにだれも新しいテクノロジー文化に内在する言語を知らない。われわれは新しい状況に対しては目も見えなければ耳も聞こえない。われわれにいかにも説得的な言葉や思想も、現在ではなく、かつて実在したものについて語っているのであり、われわれを裏切るものである。

われわれは聴覚的空間に戻ったのである。われわれは三千年の文字教養の歴史によって引き離された原初の感情と情緒を、再び自分のものにしはじめているのである。

「手は流すべき涙をもたない」

ネットやケータイ、そしてソーシャルメディアが登場したのは、マクルーハン氏が死去された後であり、当然これらについては言及されていません。しかし、氏のメディア論は、これらの新たなメディアが人間に与える影響を理解する手助けになるのではないかと考えています。

また、現在私はいくつかのネットメディアの構築・運営に携わっていますが、それらメディアをより良くするにはどうすれば良いか、その方法を考えるうえでも、マクルーハン氏のメディア論は大きなヒントになるのではないかと考えています。

2011年4月20日水曜日

被災者に寄り添い続けるために、報道メディアができること

東日本大震災の「非」被災者ができることについて、先日参加したセミナー『私たちに今、できること~岩手県陸前高田市からの報告~【NPO3団体合同報告会4/18】』で、NPO法人テラ・ルネッサンスの鬼丸氏は次のように仰っていました。

非被災者は被災者(当事者)には決して成り得えません。
無理して当事者になろうとせず、非被災者にしかできないことをやりましょう。
そしてそれは、被災者に寄り添い続けることです。

ここにある「寄り添う」には「募金する」「ボランティアに参加する」などの行動が含まれており、被災者にできることは「募金を続けること」あるいは「ボランティアに参加し続けること」ということになります。今だけでなく、これからも続けること。今回の震災は未曾有の被害を出しており、未だ復興段階に入っていない地域も多く、復旧・復興には十年単位の期間を要するとの試算も出ている中で、「寄り添い続ける」のは本当に大切なことだと、私も感じています。

しかし、今のままで続けられるでしょうか。

被災者に寄り添う行動を起こすには、そもそも何らかの問題意識が不可欠です。「家が流された方やご家族を無くされた方など、困難な状況におられる方がいる。自分にも何かできないだろうか」そうした問題意識が、行動の源泉となります。しかし、残念ながら多くの人は(もちろん私も含め)、よほど強い意志や使命感を持たれている人でない限り、この問題意識は、せっかく抱いたにも関わらず、時とともに薄れていきます。「時間が経過すれば、被災者・被災地のことが忘れされる」という危機感は、私が参加していた助けあいジャパン/ボランティア情報ステーションにもありました。実際、被災地から離れた地域には「東日本大震災は既に終わったこと」として扱われているところもある、と聞いています。震災からの復旧・復興には様々な活動があるはずで、たとえ今は何もやれない人でも、近い将来何かしら「出来る事」が必ず出てくるはずです。しかし、そうした「出来る事」が出てきたときに問題意識が薄れていては、結局何もやれません。人は忘れやすく、問題意識を持ち続けることは根源的に難しい。

私はここに(こそ)報道メディアにできることがあるのではないかと考えています。

問題意識を持ち続けるために必要なのは、「継続的に問題を認知した上で共感・関与する」こと。そして良質な報道メディアであれば、これを促進させることができるのではないかと、そう考えています。

しかし、残念ながら既存報道メディアの軸足は「認知(というよりも情報を上から下にドカン)」にあり、「共感・関与」への意識が低く、私たちが問題意識を持ち続けるためには力不足なのも事実です(これこそが報道メディアの「使命」だとは思うのですが)。

こうなれば、「問題の認知」だけでなく「問題への共感・関与」への道筋を開くような新たな報道メディアが、もうそろそろ出てくるしかない。

これからの報道メディアについて考えるきっかけとなる4冊

少し前の社内読書会で私が紹介した「これからの報道メディアについて考えるきっかけとなりそうな書籍」をここにも掲載しておきます。どれも比較的著名な書籍で既読の方も多いとは思いますが、読み易いものをセレクトしていますので、もし未読のものがあれば是非ご一読を。同業(マスコミの情シス担当)の方向けですが、それ以外の方でも十分楽しめると思います。

まずは報道メディアの現状を把握するための書籍をご紹介。国内・海外それぞれ1冊ずつセレクトしました。これらを読むことで、国内・海外の報道メディアやそれを運営するマスコミ業界が抱えている問題とその原因、そしてそれらの問題を解決しなければならない理由が少しずつ見えてきます。


マスコミ業界の問題については多くの方が言及されており、また、人によって見方も異なるため、考えを偏らせないためにもできるだけ多くの書籍を読まれた方が良いと思います。個人的には、マスコミ業界全体が抱える構造的な問題が丁寧に解説されている長谷川幸洋氏による『日本国の正体』や、マスコミ業界の凋落について鋭く指摘されている三橋貴明氏による『マスゴミ崩壊』などもお勧めです。

ここまでにご紹介した書籍は「報道する側」の問題を把握するためのものでしたが、続いてご紹介するのは、「問題を抱えた報道メディアを利用する側(情報の受け手)」へのメッセージとなるような書籍となります。こちらも国内・海外から各1冊ずつセレクトしました。いずれも本ブログで過去にご紹介したものです。


これらを読み進めるなかで、何故私たちがメディアリテラシを高めなければならないのか、その理由が見えてきます。メディアリテラシに関する書籍としては、他にも菅谷明子氏による『メディア・リテラシー』、谷岡一郎氏による『「社会調査」のウソ』、そして田村秀氏による『データの罠』などもお勧めですが、まずは上記2冊をご一読されてみてはいかがでしょうか。