2011年7月4日月曜日

「不快なニュース」はネットで読まれない?

少し前に読んだ佐藤卓巳氏の著書『メディア社会』に、「ニュースの本質」に言及する一節がありました。

『メディア社会』P212


シュラムは「ニュースの本質」(1949年)において、人々がニュースに求める期待を「快楽原理による即時報酬」と「現実原理による遅延報酬」に二分している。犯罪・汚職・スポーツ・娯楽などの記事は「身代わりの経験」による衝動の昇華で読者に即自的な快楽をもたらすが、他方の政治・経済・文化関連記事はしばしば退屈であり一時的には不快感さえもたらす。

私はこれまで、「これは発表報道である」「これは調査報道である」など、ニュースの出し手から見た、ある意味一方的な、受け手のことをあまり考慮しない分類はよく目にする一方、こうしたニュースの受け手から見た分類はこれまであまり目にしたことがなかったため、私にとってこの分け方はとても新鮮でした。

ちなみにシュラム(Wilbur Schramm)は母国の米国では「コミュニケーション学の父」と呼ばれ、米国のコミュニケーション研究に多大な影響を及ぼした研究者のようです。


本書では「不快なニュース」についてさらに次のように述べられています。

だが、こうした不快なニュースこそが、人々を日常の現実に向き合わせ、遅延的つまり結果的に現実世界での成功を可能にする。マンガやスポーツ記事など即自的快楽ばかり望んでいた子供が成長とともに政治や経済記事に関心を示すように、遅延化とは社会進出のプロセスなのである。

ここまでの内容を要約すると、『私たちが新聞やテレビ、そしてネットなどを通して普段触れるニュースには、即時報酬を伴う「快適なニュース」と、遅延報酬を伴う「不快なニュース」の2種類があり、このうち私たちが世の中と向き合うために必要なのは「不快なニュース」である』ということになるのでしょうか。

  • 快適なニュース
    事件・事故・芸能・政局・スポーツなどに関する記事。読者に快楽をもたらす。
  • 不快なニュース
    政治・経済・文化などに関する記事。読者に不快感をもたらすこともあるが、人が世の中と向き合うためには必要不可欠。

こうしたシュラムの論考を受け、佐藤卓巳氏は次のように結んでいます。

とすれば、今日に至る新聞の歴史は社会進化と逆行している。もっぱら政治・経済・文化記事で占められた十九世紀の市民新聞は、二〇世紀になると煽情的な犯罪・スポーツ・マンガで埋め尽くされた。インターネットは、こうした「快楽原理による即時報酬」を極大化するメディアといえよう。

前半部分「必要なニュースが新聞からは得難くなった」については、確かにそのような傾向はあるとは感じつつも議論の余地がまだあるとは思いますが、後半部分は私も首肯するところ大です。すなわち、

ネットは「快適なニュース」に向いている ≒ ネットでは「不快なニュース」は苦戦を強いられる

「快適なニュース」を生業にしているニュースサイトは別としても、本来「不快なニュース」を提供する責任を持つニュースサイトを運営されている方であれば、恐らく誰もがこのことを痛感されているのではないでしょうか。いっそのこと運命を受け入れ「快適なニュースに向いているのであれば、ネットではそれだけにしよう」という選択肢もあるのかもしれませんが。

しかし、情報収集方法の主役が紙媒体から電子媒体に移行しつつある今、ネット上から「不快なニュース」が駆逐されることは、それはそのまま「不快なニュース」との接点が全体的に薄くなることを意味するように思います。従って私は、「不快なニュース」を提供する責任を持つ側は、どれほど大変であったとしても、ネット上から撤退するのはいかがなものかと、こう考えるわけです。

苦戦を強いられる「不快なニュース」をいかにしてうまく届けられるか、そこが問われている気がしています。厳しいですが、解決し甲斐のある、なかなかハイレベルな課題だと思うのですが。