文章においては「しばらくすると腐る」ところと「なかなか腐らない」ところがある。「風穴」があいていると文章はなかなか腐らない。
<中略>
きちんとパッケージされていて、理路整然、博引旁証(はくいんぼうしょう)、間然するところのない文章であっても、「風穴」があいていないと経時的変化とともに、「酸欠」になって、腐り始める。
<中略>
「腐る」というのは言い換えると「経時的に汎用性がない」ということである。つまり、例えば、今から二十年前の読者や今から二十年後の読者というものを想定したときに、その人たちにもこちらの言いたいことが「伝わる」かどうかということである。その程度の広がりの中なら、十分に読解可能であるのは「腐らない文章」である。
「二十年前、あるいは二十年後の読者に伝わる」という視点はとても新鮮でした。一方で「腐る文章」については次のように言及されています。
メディアがもてはやす「切れ味のよい文章」はたいていの場合、「同時代人の中でもとりわけ情報感度のよい読者」を照準している。二十年前や後のことなんかあまり考えない。ファッショナブルな月刊誌の場合などはしばしば先月号の読者を「時代遅れ」と冷笑して切り捨てることさえ厭わない。
でも、その気遣いの欠如(そのクールさが外形的には「かっこいい」のだ)が文章を腐りやすくする。同時代のさらに狭いサークルでの「内輪の語法(ジャルゴン)」が通じるような少数の読者にのみ限定するような文章が、時代も場所も状況も違う読者にとっても読解可能であるかどうか。考えてみれば誰にもわかる。
「切れ味のよい文章(腐る文章)」がもてはやされる背景には、「読者側からの要求」もあるようですね。
どうもファッショナブルで「メンバーズ・オンリー」的な排他性をたたえた文章を書きたがる人も読みたがる人も後を絶たない。たぶんそのような排他的なポーズが読者の欲望をそそるということをみんな知っているからだろう。
ネット上に溢れる文章情報について、個人的な印象としては「腐る文章」が溢れているように感じます。新旧メディアが乱立する中、多くのメディアは何とか多くの人の注意を引くために、あるいは日銭を稼ぐために「腐る文章」を量産してしまっているのではないでしょうか。これが悪いことだとは言えませんが、腐る文章を量産するようなメディアが長生きできるとも到底思えません。
このブログでは「文章で伝えること」について、これまでに何本か記事をポストしてきました。
並行して私自身色々と試してはいますが、なかなか「伝わる文章」を書けている実感が湧きません(恐らくこの文章自体も「伝わる文章」からは程遠いのですよね)。そもそも何を目指せば良いのかがわかりませんでした。しかし今、少し方向性が見えてきたような気がしています。
私はこのブログで「腐らない文章」、すなわち「十年後・二十年後の読者にも伝わる文章」を目指してみようと思います。そしていつかは「腐らない文章」(百歩譲って「腐りにくい文章」)が書けるようになりたいものですね。
あとがきについてのみの記事となってしまいましたが、『街場のアメリカ論』の本編も是非どうぞ。内田樹氏による「日本人に根付くアメリカ観」に関する考え方はとてもユニークで面白いですよ。
本当に勉強になります。