「東洋人の命の価値は、西洋人のそれよりも軽い。だから殺しても構わない」と言い放つアメリカの仕官。東洋人は「劣った人種」だと刷り込まれ、ゲーム感覚で兵器を操り、兵士・捕虜・民間人、誰彼構わず目の前に居るベトナム人の殺戮を厭わなくなるアメリカ兵。そのアメリカ兵も、戦争によって体も心もズタズタにされ、帰国するころには何のために戦っていたのかわからなくなくなっていた。そして「自由を勝ち取るため」に助けを求めたアメリカに破壊されるベトナム。戦争は人を狂わせ、憎しみを無限増殖させる。戦争だけはやってはいけない…
これが、両作品を通して私が感じた、ベトナム戦争の悲惨さです。
私は映画を観ながら、何故アメリカはこのような、アメリカ市民自身が後悔するような戦争を始めることができてしまったのか、その理由について考えていました。何故戦争へ突き進む政府や軍部を、市民はとめることができなかったのか。
ベトナム戦争以来アメリカの対外政策を批判し続けてきたMITの著名な言語学者ノーム・チョムスキー氏は著書『メディア・コントロール ―正義なき民主主義と国際社会』の中で次のように指摘されています。
場合によっては、歴史を完全に捏造することも必要になる。
それが病的な拒否反応を克服する一つの方法でもある。誰かを攻撃し、殺戮しているとき、これは本当のところ自己防衛なのだ、相手は強力な侵略者であり、人間ならぬ怪物なのだと思わせるのだ。
ヴェトナム戦争が始まって以降、当時の歴史を再構築するために払われた努力はたいへんなものだった。あまりにも多くの人が、本当の事情に気づきはじめていたのだ。多数の軍人だけでなく、事実に気づいて平和運動などに参加した若者もたくさんいた。これはいかにもまずい。そうした危険な考えを改めさせ、正気を取り戻させなければならなかった。
すなわち、われわれのすることはみな高貴で正しいことだと認識させるのだ。われわれが南ヴェトナムを防衛しているからにほかならない。いったい誰から?もちろん、南ヴェトナム人からだ。ほかの誰がそこにいただろう。ケネディ政権はいみじくも、これを南ヴェトナム「内部の侵略者」にたいする防衛と称したものだ。
この言い方は民主党の元大統領でケネディ政権の国連大使を務めたアドレイ・スティーヴンソンなども使っている。これを公式の見解とし、国民にしっかりと理解させなければならなかった。その結果は申し分なかった。メディアと教育制度を完全に掌握していさえすれば、あとは学者がおとなしくしているかぎり、どんな説でも世間に流布させることができるのだ。
翻って日本。半村一利氏の著書『昭和史』には、無謀な戦争へ突き進む軍部を、新聞が後押しし、日本全体が太平洋戦争へと雪崩れ込んでいく様子が描かれています。
戦争は一度始めてしまうと後戻りができなくなる。
決して始めてはいけない。
しかし、メディアは、私たちを戦争へと誘うことがある。
戦争の啓蒙を、メディアがすることがある。
私たち一人ひとりが、メディアの嘘を見抜けるようになる必要があるのではないか。
うまくまとめることができないのですが、私がメディア・リテラシを大切に思う理由が、ここにあります。私たち市民一人ひとりが考える力をつけ、メディアの情報を鵜呑みにしなくなること、メディアにコントロールされないような「情報耐性」を身に付けること、これはとても大切なことなのではないでしょうか。